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Kitchen Hypothesis

キッチン仮説。料理の「なぜ」を追求するレシピを紹介していきます

パスタと塩析

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『男のパスタ道』は、原稿を書きすぎてしまったため、数万字を削ったのだが、そのなかでも、最後まで本に入れられないものか、と悩んだのが、「パスタにおける塩析問題」だ。

ゆで汁に塩を入れる理由についてインターネットで検索すると、「塩析」という言葉がよく出てくる。いわく、「塩析によって、パスタのタンパク質が溶けてグルテンが残り、コシが出る」。あるいは、「塩析でパスタ表面のタンパク質を溶け出しにくくしてコシを強くする」、「塩析でパスタを引き締める」などなど。

私の化学の知識が付け焼き刃なせいかもしれないが、これらの説明には、どうにも納得できない。まず「タンパク質を溶かしてグルテンを残す」というが、本にも書いたように、に、グルテンこそ、パスタのタンパク質の9割を占めている。仮にグルテンを溶かしたとしたら、パスタにコシが出なくなってしまうだろう。

「タンパク質を溶け出しにくくする」についても、グルテンはそもそも不溶性だ。もともと溶けないのである。もしかしたらグルテンのことではなく、アルブミン、グロブミンなど、パスタに含まれるほかの水溶性タンパク質に言及しているのかもしれないが、それとコシにどう関係があるのか。 そして、そもそも「パスタを引き締める」とは、いったいどういう意味なのか? 文系人間の私からしても、科学的とはいえない解説に見える。

唯一あるかもしれないと思ったのは、ウィキペディア日本版のパスタの項目にある「表面がうどんのようにぬるぬるするのを防ぐ(化学用語で塩析という現象)」という記述だが、実はこの説明もかなりあやしいように思う。

塩析とは、簡単に言うと、コロイド粒子を塩の電解質によって塊にし、分離することだ……と言っても何のことか分からないと思うので、まずはコロイド粒子について説明する。

コロイド粒子とは、直径がだいたい100ナノメートル以下、あるいは原子数が10の3乗から10の9乗ほどの細かい粒子のこと。これが例えば液体の中に分散していると、すぐには沈殿せず、長い時間安定した状態となる。コロイド粒子は液体だけではなく、個体や気体の中に分散していることもあり、これらをまとめてコロイド分散系と呼ぶ。

コロイド粒子は固体の粒とは限らない。例えば牛乳やマヨネーズでは、油という液体の細かな粒が、水中に安定して分散している。サクサクのクッキーでは、気体の粒が、固体の中に分散している。空に浮かぶ雲だってコロイド分散系で、水の粒が、気体の中に分散している。

ゆでたパスタもコロイド分散系である。デンプンが糊化する過程については本のなかでくわしく書いたが、膨潤したデンプン粒は、アミロースが水分子が結合した形で、水中に安定して分散している。水中に分散しているというと、水のような液体を想像するかもしれないが、粘りが強いとコンニャクのように弾力がありつつ固まる状態になり、これをゲルと呼ぶ。ゆでたパスタ内のデンプンはゲルの状態になっているのだ。そしてパスタ表面のヌルヌルも、パスタから流出したデンプンのコロイド粒子、加えてデンプン粒が崩壊して出てきたアミロースなどが水分子と結合したコロイド分散系になっている。より濃度は薄いが、ゆで汁も同様である。

こんなふうにコロイド粒子のまわりに水分子がくっついた形のものを「親水コロイド」という。親水コロイドでは水分子がじゃまになって、コロイド粒子同士がくっついて大きな塊になることはない。逆に言えば、コロイド粒子から水分子を引き剥がしてやれば、粒子同士をくっつけて大きな塊にすることで、水から分離できる。

塩(塩化ナトリウム)を水に溶かすと、ナトリウムイオンと塩化イオンに分かれるが、これらのイオンは水分子と強く引き合うので、デンプンのコロイド粒子から水分子を奪い、デンプンを分離することができる。塩を入れれば、パスタ表面からヌルヌルを取り去ることができるわけだ。これが正しい意味での「塩析」なのである。

ただし、話は単純にはすすまない。もし親水コロイドから水分子をすべて剥ぎ取ろうと思えば、1リットルあたり5モル~10モルもの塩が必要になると計算できるからだ。じつに292・5~585グラムもの塩を入れる必要がある。20度の水1リットルには358.5グラムしか溶けず、モル沸点上昇を考えて107℃まで温度を上げても396グラムしか溶けない。

そういうわけで、ふつう、塩析は、飽和食塩水レベルのとびきり塩辛い塩水を使って、コロイド粒子同士を大きな塊にして沈殿させる。しかし、当然ながら、そんな塩水でゆでたパスタはいくらお湯で洗っても、しょっぱすぎて食べられない。すなわち、通常のゆで方をする限り、パスタと塩析は無関係と言えるだろう。

では、どうして、パスタをゆでるときに「塩析」が語られることになったのか? これが大きな疑問だったのだが、もう一度、上の記述を思い出してほしい。

"塩を水に溶かすと、ナトリウムイオンと塩化イオンに分かれるが、これらのイオンは水分子と強く引き合うので、デンプンのコロイド粒子から水分子を奪う"

『男のパスタ道』を読んだ方なら、これが、食塩水のイオンが、デンプン粒の糊化に必要な水分子を奪うのと同じ仕組みであることに気づくのではないか。もともと「塩析でパスタのコシが出る」などと書いた人は、もしかしたらこの糊化の抑制のことが言いたかったのかもしれない。その後「塩析」という言葉が一人歩きし、さまざまな記述につながったのではないだろうか。